橋本さんの想いを繋ぐ

橋本さんの想いを繋ぐ

『沈黙の春』や『複合汚染』などを読んで、有機農業という世界があることを知ったのは40年以上も前のことになります。

橋本さんの終の棲家となる八郷町に研修に行ったのもそのころでした。生家で有畜複合有機農業を始めてからは、東京から小さな車を満車にして援農で年間何回も仲間を伴って来てくれました。提携先の消費者の紹介にも労を惜しまないだけでなく、環境問題などにも目を向けさせてくれました。

新治村(現在は合併してみなかみ町)での収穫祭だけでなく、シンポジウムなどを企画すると必ずと言ってよいほど参加してくれました。夜更けまで青臭い議論に付き合ってもくれました。

都内で開いていた、お米の学習会に誘われて何度か足を運びました。その帰結としての減反裁判に原告の一人として参加し、裁判所にもおどおど入った記憶があります。減反裁判が終わってから数年後「長い裁判をしても変わったのは(要望や陳情に行くとき)役所が全員を入室させてくれるようなっただけだった」との言葉は生涯忘れないでしょう。

減反裁判の費用を稼ぎ出すために発案されたしめ縄は今でも作り続けられていました。今年の正月に頂いたしめ縄は、まだ我が家のデッキの上に飾ってあります。しっかり作られているので、風雨にさらされても朽ちていません。

私たちの結婚披露宴にも八郷から駆けつけてくれました。パートナーが八郷の近くの生まれということもあり、ほぼ毎年年始のご挨拶に橋本家にお邪魔せていただきました。日本各地のお仲間から送られてきた恵みの品々をを、巧みにさばいた手料理でいつもおもてなしをしてくれました。手土産でお持ちした地元沼田城下の刀鍛冶末裔が作った橋本名入りの鍬を生涯愛用してくれました。

いつしか「カワイ君」から「カワイさん」に呼び方が変わっていました。地方創生の地域活性リポートが掲載された雑誌の写真を評して「ずいぶん雰囲気が変わったね。人に何か伝えられる顔付になったていうか・・・」と言われたのは2年前のことでした。

橋本さんと共に歩んだ時間が私を成長させてくれました。森林資源を活用した循環型社会=持続可能な社会の「みなかみモデル」を目指している私は、共に行動することが「育てること」と教えてくれた橋本さんの想いを仲間に繋いでいます。肉体は滅びても想いは次の世代に受け継がれていきます。